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アスモたんぽぽ新聞149号

アスモ・たんぽぽ新聞第149号 トピック

「なかにし礼物語」

われわれは何処から来たのか
われわれは何ものか
われわれは何処に行くのか
サンプル 昭和歌謡界の第一人者で小説家でもあるなかにし礼さんのホームページトップの自身の言葉です。
なかにしさんは満州国に生まれ、7歳の時に終戦を迎えます。母と姉の3人でソ連軍の奇襲攻撃や中国人の暴動に曝(さら)されながら、命からがら日本に引き上げてきます。その地獄絵図のような過去の経験が言葉となり歌となって、経済復興に沸き立つ日本人を魅了したのです。なかにしさんは、1963年立教大学仏文科3年の時に学生結婚をします。その年の夏、静岡県下田に新婚旅行に出かけます。夜、新妻とホテルのバーに入ったところ、とんでもない男に「一緒に飲まないか」と声を掛けられます。男にとって二人はとても素晴らしいカップルに映ったのです。
サンプル その時、いつしか7歳の時に見たハルピン駅での光景が蘇ってきます。ハルピン駅で隙間もないほどの列車に押し込まれ南に向う途中、ソ連の戦闘機に銃撃され、多くの人が亡くなる中、なかにしさん親子は奇跡的に助かったのです。ひと月ほどかかって到着した港町で雲ひとつない青空の下に広がる海に浮かんだ軍用艦を目にします。自分たちを日本に乗せていってくれる船。絶望の中で見つけたあの光景を、「ハレルヤ」の4文字で表します。『恋のハレルヤ』は大ヒットし、黛ジュンは一躍スターの座に駆け上ったのです。
時代を大きく動かすほどの一流の方でも、もとを辿るとちょっとしたご縁や出会いがきっかけとなり人生が開いていったというお話はよく聞きます。なかにし夫妻が素敵なカップルに映らなければ・・・。或いは、なかにしさんが石原プロを訪問することがなければ、今の作詞家なかにし礼も黛ジュンも存在しなかったことになります。
私たちが携わっている介護のお仕事も、ご利用者やご家族をはじめ数多くの方々とのご縁があってお仕事をさせていただいていると日々痛感しています。全ての方々に対し常に感謝の気持ちを忘れず、日々のお仕事に取組んでいきたいと思います。
サンプル ある日、裕次郎さんから呼び出され「新人を預った。この子を売り出したい。歌を作ってくれないか。名前も考えて欲しい」と頼まれます。尊敬する作曲家、黛(まゆずみ)敏郎氏の名前がすぐに頭に浮かび、またその彼女の本名が「渡辺順子」であったため「順」を取って、「黛ジュン」と名づけます。先に曲ができます。「この曲をヒットさせることが自分の運命を切り開いてくれた裕次郎さんへの恩返しになる」と仕事に没頭したのです。
サンプル その時、いつしか7歳の時に見たハルピン駅での光景が蘇ってきます。ハルピン駅で隙間もないほどの列車に押し込まれ南に向う途中、ソ連の戦闘機に銃撃され、多くの人が亡くなる中、なかにしさん親子は奇跡的に助かったのです。ひと月ほどかかって到着した港町で雲ひとつない青空の下に広がる海に浮かんだ軍用艦を目にします。自分たちを日本に乗せていってくれる船。絶望の中で見つけたあの光景を、「ハレルヤ」の4文字で表します。『恋のハレルヤ』は大ヒットし、黛ジュンは一躍スターの座に駆け上ったのです。
時代を大きく動かすほどの一流の方でも、もとを辿るとちょっとしたご縁や出会いがきっかけとなり人生が開いていったというお話はよく聞きます。なかにし夫妻が素敵なカップルに映らなければ・・・。或いは、なかにしさんが石原プロを訪問することがなければ、今の作詞家なかにし礼も黛ジュンも存在しなかったことになります。
私たちが携わっている介護のお仕事も、ご利用者やご家族をはじめ数多くの方々とのご縁があってお仕事をさせていただいていると日々痛感しています。全ての方々に対し常に感謝の気持ちを忘れず、日々のお仕事に取組んでいきたいと思います。